追悼 木之下晃さん

 

 音楽写真家の木之下晃さんとは、途切れることのない40年に及ぶ付き合いだった。突然の訃報に接し、こんな寂しいことはない。木之下さんと初めて会ったのは1976年、銀座和光での写真展「世界の音楽家」の会場だった。当時私はまだ20代の後半、出版社に入ったものの現実と理想の乖離にもう会社をやめようと思っていた。その頃の、私の救いは音楽だった。愛読していた雑誌『音楽現代』の巻頭写真はいつも木之下晃だった。この人の写真は凄い、音楽を写真に撮っていると思っていた。

 「あなたは5日間の会期中の3回も来てくれたんだよ。そして、出版社をやめると言っていたのを止めたのは、僕だよ」木之下さんは私が忘れてしまっていたことまで覚えていた。博報堂をやめ、困難な音楽写真家の道を歩みはじめたばかりの彼の忠告だった。

 1982年までの10年間に、木之下さんは1年平均248日もコンサートホールに足を運び、来日した演奏家の写真を撮り続けていた。並のエネルギーでできることではない。最初の出会いから6年後、私は彼の仕事の集大成となる『世界の音楽科』(全3巻)を編集した。深夜まで木之下さんの家に詰め、ベームやバーンスタインの写真を拡げ、彼の演奏はこの写真がベスト、いやこっちだと、やりあったのが忘れられない。デザイナーは勝井三雄さん。すばらしい本ができる予感があった。

 ところが全集の3巻目になると、木之下さんの写真プリントがなかなか上がってこない。刊行期限もあり、私が催促すると「僕は心臓が良くないんだよ。それでプリントができない」という。私は心臓がそれほど悪いとは知らず「木之下さん、写真集と心臓とどちらが大事ですか」と返すと、「それは写真集だよ」と応えた。さすが木之下晃だった。

 1985年春、全3巻の写真集は完成してほどなく、木之下さんは心筋梗塞を起こし、虎ノ門病院に緊急入院した。だが、心臓のバイパス手術の行われるその日に、『世界の音楽家』で芸術選奨文部大臣賞を受賞した知らせが病室に届いた。「これで僕の手術は成功するに違いない」木之下さんは、そう思ったそうだ。

 手術は成功し、木之下さんは無事生還した。手術後、木之下さんは登茂枝夫人の献身的な助力を得て世界の音楽写真家、世界のKINOSHITAとして歩みを続ける。その活躍は音楽ファンならずともよく知られるところだ。朝比奈隆や武満徹の写真集を作り、若い音楽家のデビューを助け、新日鉄音楽賞はじめ数々の賞を受賞する。

 木之下さんの写真には一点の妥協もなかった。エキセントリックな凄まじい情熱を持ったカメラマンだった。一方、彼は私のことを「闘う編集者」と言った。二人とも頑固な職人気質。良いものを作るためには、お互い一歩も引かなかった。もう顔も見たくないと思うことも何度もあったが、しばらくするとまた会い、仕事を共にした。私のほうがモーツァルト、バッハ、武満徹の全集を作っていたときは、木之下さんにはいつも力を貸してくださった。『モーツアルト全集』の取材では一緒にヨーロッパを回ったこともある。

 木之下さんの主要な写真集をいつも私に任せた。『世界の音楽家』はすでに絶版、それでもう一度まとめてほしいと言う。こうして生まれたのが写真集『マエストロ』、さらに200人の芸術家が同じ一つの石を持った、世界に類のない写真集『石を聞く肖像』と続いた。

 見事なフレーミング、ここでしかないシャッターチャンス。木之下晃はエネルギッシュな天才写真家だった。心臓に爆弾を抱えながら数度の再手術を経て、あれから30年、木之下さんは休むことなく走り続けた。音楽は時間の芸術であるから一瞬にして消えてしまう。だが、木之下晃よって音楽は見事にフイルムに刻印された。そこには虚空に消えてしまった現実の音だけでなく、音楽家たちが目指した理想の音、理想の響きまで写し撮られていた。世界のマエストロたちが木下さんの写真を絶賛した理由はそこにある。音楽を愛するすべての人にとって、木之下晃の写真はかけがえのないものになった。木之下晃の写真は永遠に残る。

 私は彼の作品を写真集にまとめられたことを誇りに思う。木之下さんありがとう。ご冥福を祈ります。

 

 

 

 

 ●デザイナーの勝井三雄さんが2019年8月12日に亡くなった。 これは勝井さんとの最後の仕事になった勝井三雄展図録「勝井三雄・光の共振」に執筆した原稿である。

 

 

「光」と「精神」 ——勝井三雄のまなざし       

                                 大原哲夫

                   

 光と色彩と眼について、ゲーテ(1749-1832)の論考に耳を傾けてみよう。

 ゲーテは光と精神について次のように述べている。「自然界における光」と「人間界における精神」とを対等の関係として対比させ、そのいずれもが「至高にして、細分化することのできないエネルギーである」(以下、Zur Farbenlehre”『色彩論』、ゲーテ『自然と象徴』所収、高橋義人編訳、前田富士男訳、冨山房)と述べる。

 ゲーテは、さらに眼の働きについて「眼は光が生命体に与えた究極かつ最高の成果である」とし、「形を見る喜びは人間の持っている優れた特質のひとつである。われわれ人間の内なるものが、その喜びを眼に伝えるのである」さらに「美しい形や調和ある色彩を見る喜びを知っている人は、眼を介してその愉しさを他の人に伝える」と述べる。こうしたゲーテの論考に出会うと、これは勝井三雄のことを言っているのではないかと、私には思えるのである。

 ゲーテが『色彩論』を書いたのは、200年ほど前、20世紀の日本に勝井三雄が誕生するなど知る由もなかったであろうが……。ゲーテは、1790年、たまたま手にしたプリズムに興味を持ち、それが契機になり、のちに『色彩論』を書いた。勝井三雄もまた少年時代に、日光写真に焼き付けられた光に興味を持ち、さらに大学時代にはライカM3を手に、被写体にではなく、光と影を追い求めた。形が出現する根源を求めた帰結が光だった。光は、勝井三雄の永遠のテーマとなる。

 勝井さんとの最初の仕事は音楽写真家・木之下晃の『世界の音楽家』(全3巻、芸術選奨文部大臣賞受賞、1982-83)だった。その後も、数十冊に及ぶ美術書や音楽書の編集を通じ、40年近くともに仕事をしてきた。仕事のたびに思い知らされるのは、勝井さんの頭の中の抽き出しには、無限の色や形、光が仕舞われているのではないかということだった。

 2008年、伊豆高原の池田20世紀美術館での勝井三雄展のタイトルは「光の様態」。展覧会の会場で私は1点の作品に釘付けになってしまった。「the appearance of light-c」という新作のポスターだった。黄色とオレンジの地に、紫と濃い緑のグラデーションで区切られた三角形、まさに光の様態を暗示し、光が音と微妙にシンクロする。作品に呼応して音楽が鳴っていた。空間、時間の中で輝き、うつろう光、一瞬たりもとどまることのない時間の芸術である音楽、このほとんど平面上にとらえることは不可能と思える両者が共振していた。

 その頃、私は作曲家・林光の集大成となるCDと書籍による作品集『林光の音楽』の編集に没頭していた。展覧会の前日に勝井さんから装幀を受け取ったばかりだった。どこか音楽の聴こえる、幼児たちのプリミティブな絵をコラージュしたブックデザインをお願いしていたのだが、明らかに私のディレクションミスだった。展覧会で見た作品を使用したほうがいい。

 深夜、電話で勝井さんに恐る恐る、出来たばかりのそれも一度OKしたデザインの変更をお願いした。1からやり直しになる。叱られるのは覚悟の上だったが、勝井さんは新作のポスターを作品集のデザインに先に回してくださった。出来上がった『林光の音楽』に、まだお元気だった林光さんがなんと喜んでくださったことか。一冊の本を仕上げるまでにはこんなことが何度かあった。

 著者や編集者の無理な注文を聞かなくてはならず面倒なことも多いが、それでも勝井さんはエディトリアルの仕事を好んだ。書籍には小口(木口)とか柱とか、建築と共通の用語まである。書籍は2次元の写真や図像を取り込むだけでなく、天地、左右、厚みを有し、表紙、背、カバー、ときには函まである3次元の造形物であり、さらには時間や意味、社会との関係性までその中に閉じ込めることができる。一冊の書籍を仕上げることは一棟の建築物を創るに等しい。それは構造的に構築的にひとつの世界を創ることでもある。

 わが家の書棚に『空気遠近法』という現代版画工房1983年刊行のアートブックがある。棚から取り出してなんと36年ぶりに中を開けた。すっかり忘れていたが、表紙裏には当時いただいた勝井さんのサインがあった。写真/奈良原一高、詩/田村隆一、構成/勝井三雄。漆黒の闇の中に金文字の詩、モノトーンの写真が光となって浮かび上がる。経折りの構成的な造本、表紙は輝かしい黄色の布クロス。「今見ても新しい」ではなく、今ではほとんど見ることのできない美しい本である。

 勝井さんの本作りを見ていると、ミクロからマクロの世界まで視野を拡げ、さらに形が現出する過程を構造的に捉え、システムとしてのデザインを構築していく。カンディンスキーは、「あらゆるコンポジションは数値に置き換えられる」と言ったが、本作りに限らず、勝井三雄の作品には数値化される構造・システムと、経験・感性によるひらめきが融合され、そこに新たな生命を誕生させている。言い方を変えれば、アポロン的感性とディオニソス的感性の、その両者の奇跡的な邂逅ということもできよう。そしてどの作品にも、どこかに光を感じるのである。生命の起源である宇宙を取り込んでいるかのようだ。そういえば、ミクロからマクロへ『土の記憶』(2002年)『水を誌す』(2005)と続いた勝井三雄のまなざしは、2019年の最新作『光のコスモロジー』では、宇宙へと向けられている。

 世界的に見ても勝井三雄のようにほぼ70年にわたりデザインの第一線で、まったく衰えることのない仕事を残している人は稀である。しかもその仕事は、ビジュアルコミニケーションのあらゆる領域に及んでいる。私が関わったのは勝井三雄の多彩な仕事のごく一部、いや、中核をなしていたといえるエディトリアルの領域で、それも仕事を通じて、美とはなにかということをずっと学んできたように思う。幸せなことに40年ものあいだ、私は「勝井学校」の生徒であり続けられた。そのことを、なににもまして感謝したい。

 「人間はこの世の中に『眼』を持って生まれてきます。しかし『見る』ことを学ぶには、ただ少しずつ修練してゆくほかはありません」(Apollo in the Democracy--The Cultural   Obligation of the Architect”『デモクラシーのアポロン——建築家の文化的責任』 桐敷真次郎訳、彰国社)バウハウスの創始者、ヴァルター・グロピウスの言葉である。

 美は1日にしてならずであるが、美を見る眼も1日にしてならずである。私たちは、勝井三雄のまなざしを通して見た美の世界、勝井三雄によって表現された光と色彩の世界を知り、学び、感じることができる。

 再びゲーテの言葉を引用しよう。

「眼は、光が生命体に与えた究極かつ最高の成果である。光そのものがなしうることはすべて、光の創造物たる眼もなしうる。眼には、外からは世界が、内からは人間が写し出されている。内と外との全体性は、眼を通じて完成される」

 ゲーテのいう「光」と「精神」を、私たちは勝井三雄の作品から知るのである。